他人の死を実感することはとても難しいという話
はじめに
こんにちは。
アニメ「Charlotte」で主人公の妹が死ぬという描写がありました。主人公は涙をながすという描写から妹の死をすぐに実感していると感じました。それに対して僕は妹の死をどうしても感じることができなかった。それはやはり、死を認める条件が非常に厳しいからだと思います。今回はそのことについて書こうと思います。
死は生の否定
他人の死を実感することは難しい。そもそも死は生の否定であるため、死を証明するには生を否定しなければならない。ではどうやったら生を否定することができるのか。
それには僕達がどのように生を感じているかについて考える必要がある。たぶん僕たちは「生=動いていること or 動いていると確認できること」だと思う。実際に目の前を動いていれば生きていると思うし、実際に視認できなくても声を聞くことで、メールで動いていることを知って生きていると分かる。
しかし死体でしか生を否定出来ない
ここまで書いて思ったが、動いていることが確認できなくなったからといって死んでいるわけではない。どれだけ期間が空いても、それがそのまま死につながるわけではない。どこかに行ってしまったのかもしれないし、連絡が取れないだけかもしれない。
結局のところ、生を否定することができるのは死体という死の結果だけだと思った。だからそのような描写が出てこない限り、僕はCharlotteで起きた妹の死を実感する日は来ないのだと思う。
それと同様に誰かが亡くなった際、その人の死体を見て死を実感しない限りずっと生きていることになってしまう。死を実感するという唯一のチャンスを逃すことになる。その人とのこれまでの関わりを大切にするためにも、それだけは絶対に避けたいと思っている。身近な人であれば、僕はしっかりと死を受け止め実感することが僕は良いことだと思っている。
自分の範囲内で確認できない死
僕はARIAというアニメがとても好きだ。しかし残念なことに、アテナ役の川上とも子さんとその歌を担当していた河井英里さんが亡くなっている。正直かなりへこんだし、もうARIAが続くことはないのかなと思っていた。しかし、ARIAの新作が今年の9月に放映され、クレジットに川上とも子さんの名前が記載されるとのこと。www.cinematoday.jp
この話は本当に感動した。その理由は作品と共に生き続けているということを公式が認めてくれたからだと思う。僕は未だに川上さんが亡くなったという事実を心の底からは実感できていないが、この事実は本当に嬉しい。
もしこの映画で川上さんの声が流れ、河井英里さんの歌が流れたら、僕はやっぱり両名とも亡くなっていると実感できないと思う。その一方で、もう新しい作品に出ることは無いと気付かされ悲しくなるのだろう。
声を聞くことで生を実感し、死を否定する。僕は好きな役者さんの死を実感できない。実感したいとか実感したくないとかではなくて、実感できないと思う。
自分から遠い死はそれでいい
どう頑張っても役者さんの死を実感することはできない。たとえ新作が発表されなくても、だからといって死につながるわけではない。作品とともに生きている。死を実感できない僕のようなファンはそれでいいと思う。
まとめ
死と生について自分なりに考えをまとめてみました。別にこれが正しいとか正しくないとかはどうでもよくて、死を大切にしようということです。
死なんて出会わないのが一番ですが、それは無理なことなので向き合っていきたいと思います。本当に大切なのは死と向き合ってから今をどう過ごすかなのでしょうが、僕はそこまで考えられていません。心がけていることといえば、人に会えるときに会っておこうというものです。
好きな役者さんが亡くなったとしてもやっぱり亡くなったとは思えません。自分の中で作品が死なないように、その一部である役者さんも死なないのかなと思います。それでいいと思います。
以上です。それではまた別の記事でお会いしましょう。
ブコメへの返信
普段はやらないのですが、こういう真面目な話なので名前を伏せて返信したいと思います。
そう考えると遺体に対面したり、告別式で遺体焼却現場などに立ち会うのは重要な儀式なのかもしれないですね。
本当にそうだと思います。僕達からするとどう綺麗に言い繕っても結局他人ごとでしかありませんが、当事者たちからすると本当に大事な儀式だと思います。自分の中で区切りをつけるという意味で大変大きな意味を持つのだと思います。
先日叔母の一周忌だったんですが、いまだに信じられないです。他人の死ってよほど身近なひとじゃないと実感できないのかもしれません。死って言語を超えているから難しいんですよね。否定的にしか語れない。
今まで積み重ねた関係が濃くないと僕らは生と死のギャップを感じられないのかもしれませんね。死は結局のところ僕らの認識の外にある事象ですから。僕らは自分の死を体験したことがないので。
死を否定的にしか語れないのは、結局のところ到達したくない場所と見ているからなのかもしれませんね。誰しもそうだと思いますしどうすることもできませんが…。