徒然もの書きぱん

適当にアニメとかについて書いてます。今期は何について書きましょうか。

映画『若おかみは小学生』感想―――立場の前提にある誠意、その上にある理性と感情

 こんにちは。

 ちまたで話題になっている『若おかみは小学生』を見てきました。おっこへの感情移入というよりは、立場についての気づきについて書いていこうと思います。

立場について

 ラストシーンにおいて、おっこはの立場は「両親を事故でなくした娘」と「春の屋旅館の若女将」である。このふたつは独立しているものではなく、ふたつ合わせておっこである。同様に春の屋に泊まりに来たお父さんも「客」と「親」と「事故を起こしたドライバー」としての立場がある。
 序盤は「客」としての立場で接しており、おっこは「若女将」の立場で接している。そこからお父さんは「事故を起こしたドライバー」として接し始める。これはおっこへの謝罪であり、罪滅ぼしでもある。あえて出会う必要もなかったおっこに「客」として接し、おっこの頑張りを見て「事故を起こしたドライバー」として接した。だからおっこは「両親をなくした娘」としての立場を引き出され、感情を抑えることができなくなってしまった。しかし最後には、おっこは「若女将」として理性的にお父さんに接している。だからこそお父さんは「親」と「客」として接することを選択できた。
 間違いなくおっこは被害者である。だからおっこが「若女将」としての立場を選択することは、お父さんにとってはすでに消失した「客」としての選択肢を与えたことになったし、互いにとって距離をおける立場にシフトしたともいえる。お父さんの中から罪の意識が消えることはないし、おっこの中から両親を奪われた痛みが消えることはない。互いにとって消えない傷を抱えることを選び、自分の傷で相手の傷を深めることを選ばなかった。おっこの理性と感情が選ばせなかった。

気づき

 私たちも生きている中で様々な立場で生活することを余儀なくされる。様々な立場で生きる中で、様々な感情を背負わされる。そして感情がむき出しになることもあるし、それを無理やり抑えて理性で動く時もある。しかし必ず自分の誠意があるから相手も誠意で接するのだと思う。この映画には間違いなく互いの誠意があった。だから自分も同じように誠実に対応していこうと思う。もし相手が不誠実な対応を取り続けるなら、それは人間ではない。ただその不誠実が自分の不誠実かを感情を沈めて理性で判断していかなければならない。

 様々な立場で誠意をもって、自分の行動を理性と感情で制御していこう。そしてそのまま死んでいこう。