徒然もの書きぱん

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アニメ『東のエデン』感想―――あがりを決め込んだおっさん、あがれないと悟ったニート

東のエデン 劇場版I The King of Eden
 こんにちは。

 2009年に放送されたアニメ『東のエデン』を久しぶりに視聴しました。当時視聴していたときはまだ高校生でしたし、Blu-ray BOXが発売されて再視聴したときは大学生でした。あれから時間も経ち、今回労働する立場になって改めて見直しました。

東のエデン

 『東のエデン』とは、2009年にノイタミナで放送された11話構成のオリジナルアニメで同年の2009年秋と翌年の2010年春に劇場版が作成され完結した。まだスマートフォンが普及していない情報社会になる直前の世界観で描かれている。
 本編は100億円を自由に使える立場になった滝沢朗が、記憶を失ったのちに周囲の人間を巻き込みながら日本を救おうとする物語である。

滝沢明が目指した世界

 滝沢はおっさんとニートという対立構造を見出しており、ニートが活躍できる世界が日本を救うと考えていた。日本は年功序列が続く国であるため、年をとると一般的には生活の質が向上する。一方、若者は物価と比べると低所得であり、現在の福利厚生を支えるために酷使されることになる。その構造を破壊し平等な国を作ることが滝沢が目指した世界であったように見える。しかし、劇場版ラストの大人の反応を見てわかるようにこの狙いは成功しない。滝沢が行ったのは動画を見ている人間に対して1円を振り込むことであり、影響力を示すことはできても変化を促すことにはつながらなかった。
 しかしニートたちはシネコンの跡地を活用して自分たちの生活を営み始めた。これまでは搾取されるだけで立場としても弱かったが、滝沢の一件を機に自分たちの居場所を確立したのである。滝沢が実行したのはおっさんを下に落とすのではなく、ニートを上に持ち上げることだったのかもしれない。

ニートの可能性

 本作では、平沢を筆頭に板津といった優秀なニートが複数人登場する。彼らはこれまでの組織に属することなく、自分たちで世の中に価値を提供しようとしている。東のエデンはその集大成であり、本作の根幹となっている。最適な方法をとって行動するジュイスまでもが、滝沢の過去の画像を書き換えるために使用している。それほどのものをニートという集団は作ることができるという可能性の提示でもあった。そしてニートとは、明確な意思を持って働かないことを選択しているように見える。社会に対して疑問を持っているものもいれば、自分の価値は働くことではないと考えているものもいる。

劇場版ラストの携帯電話

 本作で気に入っているシーンはいくつもあるが、劇場版ラストに滝沢から咲にセレソン携帯を渡して別れるシーンは『東のエデン』の終わりを象徴している。
 テレビ版のラストで滝沢は記憶をなくし、滝沢のセレソン携帯を持った咲がニューヨークで再び滝沢と再会するため、実は前回と同じ形式になっている。しかし滝沢はそのことを覚えていないため、前回のことを狙って意図的に携帯を渡したのではない。したがってこのメッセージは滝沢から発されたものではない。一方で咲はこのメッセージを受け取れている。このすれ違いこそが滝沢と咲の関係性であり、このふたりが再び出会うことを予見しているように思えた。
 またセレソン携帯を失ったということは、滝沢が普通の人間に戻ったことを示す。にもかかわらず彼がやろうとしていることには変化がない。作中で咲が「滝沢君は力を持っていなくても同じことをしたと思う」という言葉を再び思い出させるようであった。滝沢という人間と咲との関係性が色濃く出たシーンであった。

あがりを決め込んだおっさん、あがれないと悟ったニート

 経済成長の波に乗り日本の成長と自身の生活が向上していった50代に対して、20代は日本の成長は一切感じられず上の世代に有利なルールの上で使役されているような感覚を持っている。この感覚は僕だけのものではなく、世代的なものであると思われる。そして上の世代が作ってきた価値観に疑問をいだきながらも、上の世代が作ってきた社会の中で生きようとしている。しかしながら20台は50代とは異なる価値観で生きている。何もないものを作り出すために人生を費やしてきた50代。生まれてから物が溢れていた20代。この2つの世代が見てきた世界は大きく異なっている。

あなたが生まれたときから「ないもの」がない。だから何かが欲しいと「乾けない」。だから、あなたの世代のことを「乾けない世代」と呼ぶことができます。

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この言葉が示すように、体験してきたことが違う以上、社会に求めるものも大きく異なる。
 咲がされた嫌がらせは、会社に適合しない人間には何をしても良いという組織感の現れである。咲がエデンを選んだのは、そのような組織に対して疑問をいだいているからであり、自分の活躍の場はその組織だけではないということを知っていたからである。これまでの咲の経験が、咲の選択肢を増やしているのである。インドから帰ってきたニートたちも同じである。彼らはインドでの労働を通して、社会に貢献することの喜びを知った。そうでなければフリマなど開かず、親の元で同じ生活に戻ったであろう。ただここでいう社会とは、日本や会社ではなく個人の周辺でしかない。自分の周囲の人に対して自分の価値を発揮できれば十分なのである。
 一方で彼らの行動を見ても稼げるとは思えない。おそらく大きな企業に入った方がたくさんのお金をもらうことができる。ただニートたちが選んだのは、生きやすさであったり楽しさである。会社という組織に身を置きただ働くのではなく、自分のやりたいことをやりたいようにやっているように見えた。そして20代と50代では、求めているもの違いと同様にあがりに対する考え方が違う。50代にとってあがりとは、年金をも受け取る金額まで働くことである。対して20代は年金をもらうことすらできるか怪しいため、あがりとは病気にならない働き方をして、永く健康に死んでいくとではないか。20代には50代のあがり方を目指すことは現実的に難しい。だからこそ無理をしない自分が楽しめる働き方を作中の彼らはしているのではないか。楽しく働く今を続けていくことこそが、彼らの、そして我々の目指すあがりなのかもしれない。

最後に

 本当に久しぶりに見ましたが、2009年という時代に出てきたとは思えないほど、現在の価値観を掘り下げた内容になっておりました。今見ると本当に雰囲気の違う作品だと思います。時間があるときにじっくり見て、自分の考え方と照らし合わせて見てほしいです。

それでは。

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